春、巨匠の旧居を訪ねた話に触れたから、今度はもう一人の巨匠についての思い出話。
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CHICAGO
シカゴの郊外に、20世紀を代表する建築家フランク・ロイド・ライトによって設計された多くの住宅が今も佇んでいる。
その“オークパーク”という街を、地図を片手に足を棒のようにして、彼の作品を見て回ったことは楽しい経験だった。
そのほとんどの住宅が、およそ100年後の今も普通に住まわれていることに強い感銘を受けたのだけれど、その中の一つ、シカゴ大学のある街で見たライトの代表作“ロビー・ハウス”は、合衆国のヒストリカル・ランドマークに指定され、今はライト財団によって管理されている。
建築の感動はさておき、そのロビー・ハウスを訪れる道の途中で、もう一つの“記念館”を偶然見つけた。
BIRTHPLACE HOME OF ERNEST HEMINGWAY
そう、近代アメリカ文学の巨匠、アーネスト・ヘミングウェイの生家。
この住居が建てられたのは近代黎明期、建築の様式で言えばエクレクティシズム(様式折衷主義)という大きな流れの中でのゴシック・リバイバルということになるだろう。
さらに、エントランスのポルティコ(ポーチ)が大きく広がり、バルコニーを作っているのはコロニアル(殖民)様式の常であるし、向かって左に円筒型の塔が作られているのはチューダー様式の影響か。
当時の住宅の中では特に珍しいものではないし、このバルコニーの形は今でも北米の比較的小さな住居(バンガロー)に用いられている。
バルコニーにアームチェアを揺らして、パイプをふかしながら新聞に目を通すおじいさん、というのは映画などでもよく目にする風景ではないだろうか。
前出のライトにデザインされたロビー・ハウスとは目と鼻の先だから、ひょっとしたら幼いヘミングウェイはおじいさんに連れられての散歩がてら、ロビーハウスの建設に立ち会ったかもしれない。
“アーニー(と呼ばれていたかな?)、見てごらん。
横長のかわったお家が作られてるよ!有名な建築家の作品だってさ。”
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PAMPLONA
スペインという国には、昔からとても強く興味を持っていて、ここ数年は毎年訪れて膨大な好奇心を少しずつ満たしていくことが楽しみになっている。
パンプローナという街のことは、サン・フェルミンの牛追い祭りと共に見知っている人も多いと思う。
僕が訪れたのは晩秋のことで、もう祭りの熱気はどこにも無く、ただしっとりと落ち着いた美しい街という印象だけが残る。
ヘミングウェイは、スペイン内戦の従軍記者として戦火のスペインに滞在し、サン・フェルミンの祭りや闘牛に深く感動したという。
その体験は後に彼の代表作『日はまた昇る』の中で背景の一つとして紹介されている。
もちろんパンプローナ郊外での鱒釣りの思い出も。
牛追い祭りをなぞるように石畳の道をゆっくりと歩いた。
闘牛場の前で僕を迎えてくれたのはやっぱり彼だった。
石造りの胸像の前で記念写真を一枚。
旧市街の広場へ戻り、コーヒーで足を休める。
広場に面した“イルーニャ”という名前の店をヘミングウェイは贔屓にしていたという。
フランコ独裁政権に反対して内戦に従軍した彼らしいとも言える。
イルーニャとは、フランコに迫害されたバスクの言葉で“パンプローナ”を意味している。
昔、学生の頃に読んだ何冊かの小説のうち、今でも夏になると無性に読みたくなるものがある。
カミュの『異邦人』、サガンの『悲しみよこんにちは』、そしてヘミングウェイの『老人と海』。
『老人と海』は、戦いに疲れた老人サンチャゴの夢の中で物語りを閉じる。
老人はライオンの夢を見ていた。
物語の舞台は、キューバ、ハバナの海ではなかったか。
それはヘミングウェイ自身の体験そのものではなかったか。
彼は美しい海で巨魚と戦い、戦争で見た闇から逃れたかったのではなかったか。
キューバを去りアメリカへ戻った彼は、1961年に自殺した。
それまでに数度の自殺未遂を経ていたという。
ついに、彼は闇から逃れることができなかったのかもしれない。
(AUG 10, 2004)
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